先日の日曜日、何気にテレビをつけるとEテレのこころの時代をやっていました。
テーマは、 ~大拙先生とわたし~
大拙先生ってどなたかしら?
“大拙先生”という響きが妙に気になり、暫し見る事にしました。
何かに興味を持つということは、何か意味があるのですよね。
それが、自分にとって必要な事だったんです。
大拙先生とは、明治初めから戦後まで、一貫して東洋思想、特に仏教や禅を探求された
世界的な仏教学者 鈴木大拙先生の事でした。
わたしとは、岡村美穂子さんのこと。
岡村美穂子さんは、現在 鈴木大拙館の名誉館長でいらっしゃいます。
大拙先生と出逢われたのは、15歳の時だったそうです。
アメリカで生まれ育った岡村美穂子さんは、80代の先生に出会い、先生から無の世界とは何かについて学ばれました。
ある日、15歳の美穂子さんは、悩みを先生に聞いてもらいました。
すると、先生はこう言われたそうです。
「美穂子さん、もともと何にも無いんだよ。」って。
そんな難しい話しを、よく15歳の少女にされたなと、正直驚きました。
きっと、美穂子さんの中にある瑞々しい感性を感じとられていたからなのでしょうね。
話しは更に続きます。
「先生、どういう意味ですか?」と問うと、
「時空を超えた仏さんというのは、結局測れないんだ、美穂子さん。
計算するって、それはね、有るー有の世界じゃないと計算できないんだぞ。」
っておっしゃたそうです。
「先生、どうしてそんな話しをしなくちゃいけないんですか?
どうして、仏が必要なんですか?」 と聞くと、
「人間は業でな・・・美穂子さん。
他の生き物には無いものが、人間だけにある、それは何だろう?」
先生は、こうおっしゃったそうです。
「意識というものができちゃったんだ。 意識に目覚めたんだよ。
意識ってのは、美穂子さん何なんだろう?
それが出来ることは素晴らしい事なんだけど、一つだけ困った事が出来たんだ。
他の生き物はそこからぶれないのに、人間だけぶれちゃった。
それは何かというと、ものを主観と客観に分ける事が意識なんだ。
主観と客観という、ものを見る観点が二点できたわけだな。」
美穂子さんは、先生のこの言葉を解説してくださいました。
人間だけぶれちゃった。
ぶれるって言うのか、離れてしまって、離れた事によって私達は悩んで何かが始まる。
先生は、美穂子さんにこう言われたそうです。
「ものが二つに分かれるということは、一つであった事があるんだ。
その前があるんだぞ。その大本(おおもと)があるんだ。
私達は、大本が動いているんだ。そこを見失ったんだ。」
美穂子さんは言われました。
右か左か、白か黒か、善か悪か、上か下か、前かうしろか。
全部二つに分かれて初めて意識というものが動いているんだって。
私達は、24時間意識の枠の中で動いている。
だから、この大本が見えなくなっちゃったんだって。
先生は、そういう説明をされたわけです。
つまり、私達はみんな仏なんだけど、仏であることが見えなくなる、というか、
わからなくなる。
そういう説明をしてくださいました。
今まで、そういう観点で考えた事がなかったので、先生と美穂子さんのお言葉がとても新鮮に感じられました。
そして、更に印象深い事を言われました。
先生は、いつもテーブルをぱんって叩いて
「これ、今の聞こえたか? どこで聞いた、今のは?」って
よく美穂子さんに聞かれたそうです。
「先生、全身で聞きました。」と、賢い顔をして美穂子さんが答えると
「いいや、そんなケチくさいもんじゃないぞ。
全宇宙が聞いたから、美穂子さん、あなたが聞いたんじゃないか。」って。
「それが、無だ。」って。
美穂子さんはこう言われました。
阿弥陀仏の「ア・ミタ」のアは梵語の否定語なんです。
ミタというのは、メーターみたいなもので、秤なんですね。
だから、測る事が無いという仏様なんですよ。
測ることが無いということは、枠が無いこと。
無限っていう事なんですね。
大拙先生の言わんとするところ、なんとなくですが、わかるような気がします。
つまり、私達の中には、すでに全部あるのですよね?
そういうことなんですね?! 大拙先生?!
美穂子さんが言われた、測る事が無いという事にも、ハタと気づかされました。
気が付かない内に、もしかしたら人の心を測る事をしていたかもしれないということに。
本当に、大切な事を教えていただきました。
しかし、テレビでこんな奥が深いお話しを聞こうとは!
Eテレさん、ありがとうございました。
こんな素晴らしい先生が日本にいらしたこと、そして、金沢に記念館がある事、美穂子さんが館長としていらっしゃる事が、とても嬉しかった。
今度、鈴木大拙館へ行き、ゆっくりとそこに身を置いてみようと思います。
鈴木大拙館 は こちら